3. 思索と 自然を 貫くもの(1):
(1) 一大仮説:
ここに、自然に想定できる、一大仮説を挙げておく必要があります。それは、
『芸術作品は、その作者の性質を反映する』
したがって、この仮説(*)は、『被造物には、創造主のご性質が 厳密に反映されている』、ことを表すものです。そして、この表現方法は、厳密な数式という名の、「ことば」(=ロゴス: ことば・理性・理論、メムラ)によってなされる性質のものです(**)。数式は、普通の言葉でも表現できますが、非常に長くなってしまうので、数式のままで表現するのが合理的であると思われます。
* カール・バルトは自然啓示を否定しましたが、それはその当時の科学レベルが、創造主をあかしするには不十分だったからです。中途半端な知識では、偉大なる創造主を十分にあかしするには むしろ逆効果です。オイラーの恒等式はもちろん、20世紀末に至る 量子力学、不完全性定理、分子生物学、考古学、天文学などが、実験・観測結果を含めてよく知れ渡った現代こそ、自然啓示によるあかしにふさわしい時であると思われます。
** ジョン・ポール・ジャクソン師が天国を訪れたときのあかしによると、天上で神様が言葉を発せられると、その言葉に、数式や音楽、色、香りが伴っていたそうです。 ワーシップは闇をつらぬいて霊的環境を変えていく光の武器として使われ、「闇はそれに打ち勝つことはできない」。私たちがますます「天の音」に心を合わせるとき、地のうえでも天と同じことが起こり始める。(by.WWGM、ジョアン・マクファッター、06 7/27)
・・・・・ 物理法則の数式は、創造の当時発せられた神様の言葉に伴っていたものと考えられます。古代ヘブライ語は、『完了形』と『未完了形』しかないので、時制などを問題とせず、「信仰」を現すのに最も適した言語でした。神様が語られる言葉は、すでに成就しているのです。(未来完了形 ・・・ 日本語に訳しにくい) 「イエス様のあかしは 預言の霊です。」(黙示録19:10)
(2) 数学思索の異なる3つの出発点と 偉大なる合体:
神様は目に見えない、しかし、「在りて在る」方(出エジプト3:14)です。この方によって造られた
被造物によって、間接的に、神様の栄光をうかがい知ることができます。
まず、「神に似せて造られた」(創世記1:26)被造物である 「人」の、「思索」について見ていきましょう。『哲学』は その主張する人の数ほど 異なっていますが、『数学』は
誰が計算しても答えはひとつです。
1) 意識・知覚: 視聴覚、嗅覚(視聴覚より原始的)、寒暖・温度感覚、圧力・触感、刺激・痛覚
2) 原始的な思索(=思索の発祥地点): シンボル、形状判断(長さ、角度): ○、△、□、×、十、・・・、
自然数の認識と対応付け; 1、2、3、・・・、 記号化; x、y、z、a、b、c、・・・、
数の概念の拡張: 実数、複素数、・・ 、四則演算; +、−、×、÷
、冪(^)
変化; 増減、変化率、次元、関数、極限、・・・
3) 一般的思索: 1. 数量的・物理的な思索、 2. 精神的・霊的な思索、 3. 1.2.が統合された 社会的な思索
このうち数学思索について見ると、数量的思索の中から それぞれ独立に、
図形の思索 → 幾何学(視覚的思索) ・・・・・ 初等幾何学、非ユークリッド幾何学、トポロジー
数量バランスの思索(数式の思索) → 代数学(静的思索) ・・・・・ 方程式、不等式、行列式
変化・極限・関数の思索 → 解析学(動的思索) ・・・・・ 微分・積分、微分方程式、偏微分方程式、複素関数論
という 発展形式によって、基礎数学の3大分野が形成されてきました。
そして、それぞれの分野には、一つずつの 絶対不動な数学定数: 幾何学には π、 代数学には i 、 解析学には e 、が存在し、思索の深遠さを表現しています。 ・・・・・ なぜこれらの数が現れたのか 誰にも分からない?神のみぞ知る!
数学には他にも派生的な定数がいくつかありますが、基本的な定数は、この3つだけです。
そして、前節の最後で現れた、オイラーの恒等式こそ、謎の中の謎です。なぜなら、まったく異なる思索の発祥地点から、それぞれ独立に導き出された3つの定数が、この
あまりにも単純な式にあって、合体するからです。(*)
* 歴代の数学者、物理学者たちも、この驚くべき事実に驚嘆の声を発しています。
”この式を見せられた学生がすぐに理解できなければ、その学生は第一級の数学者には決してなれない”(ガウス) ・・・ 誰が分かるだろうか??
”これはまったく逆説的だ。我々はそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも知らない。だが我々はそれを証明したし、ゆえにそれが真実に違いないと知っている”(ベンジャミン・バース、19世紀の数学者)
”単なる表面でなくはるかに深い内面から人間の形の美しさを引き出す絵画のように、オイラーの等式は存在の深奥にまで深く到達している”(キース・デブリン、スタンフォード大)
”人類の至宝”(リチャード・ファインマン)
(3) 数学定数の形而上学的意味付け:
そして話はこれでは終わりません。ここから急に”哲学”的な話になるのですが、ご容赦ください。これらの数学定数を次のようにおきます。
π: 御父、 e : イエス様、 i : 聖霊様
なぜ このようにおくかといえば、聖書のみことばと整合性が良いからです。
(4) みことばとの 整合性:
1) 神の三位一体:
それぞれの数学思索を代表する 3つの定数が、この式において合体する事。これは本当に驚くべきことで、他にこのような合体をする定数は、現代数学や
物理定数にもありません。 神は、御父、御子、聖霊という 異なる3つの人格の現われがあって、なおかつ、ただ一つの神です。
この関係式は、3つのうちの2つが定義されると、他の1つも自動的に決まる、という性質のものです。
( cf. ユダヤ教やイスラム教、ユニテリアンの”単純な唯一一神教”、偶像の神々や三神論などの”単純な多神教”ではありません。)
2) 永遠の初めから、永遠の先まで、生きておられる方:
自然対数の底 e の 虚数の冪は、−∞ から +∞ まで続く関数で、sin 関数、cos 関数のように ”無限多価関数”、”無限周期関数”になっていて、変数のどの時点で代入しても、最初の周期のうちのどれかの価になっています。 神は
永遠に変わらない方です。
(一方、実数の冪(e-x (x: 正の実数))では、起点(x=0 =創造の時)はあっても 永遠にだらだらと減衰する形の関数です。)
3) 三位一体の神は 愛:
オイラーの恒等式の右辺が −1、 すなわち、「愛」であること。「神の愛」は、御子イエス様の十字架によって はっきり表されました。「十字架」とは、人々の罪の負債(負のもの、マイナスのもの)を贖うものです。主ご自身が 罪人の身代わりに「罪」となられました。そして、信じる私たちを、最高の代価を支払って
神のみもとに買い戻されました。(贖い = 買戻し)
e i π = −1
4) 神は力:
十字架の後の「復活」の力は、eiθの(変数の冪の)θが π のときは十字架(= −1)、それが過ぎて 2π になったとき、右辺が +1 になることで示されます。( e2πi = +1) 十字架があれば必ず 復活があります。このように、絶対的に”復元”する構造になっています。”作用・反作用”や”保存則”のような物理的な比喩のレベルではなく、数学的に、すなわち、絶対的に「復活」するべきものであることが示されます。
また、光(物質光)は = エネルギーなので、力場が sin 曲線のように円振動で 周期的に振動する形象は、すなわち、エネルギーです。神様は、永遠に生きておられる方、エネルギーの塊のようなお方です。
5) 救いと 聖霊の満たし ・・・ 聖霊様によって生きた者となる:
イエス様は、完全な「神」ですが、完全な「人」として来られました。 イエス様は、(神の第2位格であり、もちろんご自身でわざをなすことのできる方ですが、あえて)地上においてわざをなされたのは、すべて聖霊様に頼ってです。(ヨハネ5:19) 十字架からさえも降りることはできましたが、御父に従い通されました。
信じる私たちも 約束の聖霊様を受けて生きた者とされ、イエス様が行われたのと同じわざを成し、また それよりも大きなわざを行います。これは、イエス様が十字架の後よみがえられて、御父のみもとへ行った後に受ける
聖霊のバプテスマのことを言っています。(ヨハネ14:12、使徒行伝2:1−4、2:17−)
聖霊様に満たされて、初めて、たましいが「死」から「いのち」に移され、永遠のいのちのある状態になります。
e iθ ・・・ 「いのち」の形象
6) きよめ、聖霊様によって生きる:
あらゆることを通じて、「御子イエス様に似る者となること(Christ-like-ness)」こそ、信仰者の最終的な目標です。そして、「聖霊様に従って歩むこと」(ローマ8:2)のみにより きよめられます。
人は、主に似せて造られました。(創世記1:26) イエス様は「人の子」のような姿をとっておられます。(ダニエル3:25、ルカ9:28−36)
・・・・・ 幻で現れるイエス様も 人のような姿でおられます。御父は、(地上に姿を現されることはめったにありませんが、)栄光の雲と光の臨在です。
e + α → e (α(肉の成分) → 0)
肉に死んで、イエス様のような状態( e )になって初めて 聖霊様( i )の力、内側からの神の力、いのちの状態(= e iθ)を発揮することができます。どうぞ肉に死んでください!
・ イエス様は私たちに、御自身が生きられた様に生きなさいと言われています。
ラザロとイエス様の友情を、思い浮かべます。長いミニストリーの後に、群集から距離を置かれたイエス様のことを、思い浮かべます。マリア、マルタ、ラザロ
の家で、楽しんでいるイエス様を思い浮かべます。そして子ども達を抱え、祝福するイエス様の姿を思い浮かべます。結婚の宴の席で水をワインに変えた、成長
した後も母に対して従順であったイエス様を思い浮かべます。軽蔑を受ける者、醜い者、貧しい者を気にかけ、愛を注いだイエス様を思い浮かべます。姦淫の最
中に捕まった女性や、たった二枚の銅貨しか捧げることの出来なかった、やもめに対するイエス様の憐れみを思い浮かべます。
7) 御父の本質の類推:
円周率πは、(自然対数の底 e と同様に、)小数以下の数字が無限に続く無理数で、また
超越数であることが証明されています。その数字の表れ方は、循環性や偏りがなく、ランダムのように見えますが、「カオス」の振る舞いに似ていることが最近の研究で明らかになりました。
「カオス」とは、非線型な特性を持つ系において 初期状態によって様々な振る舞いをする現象全般のことです。たとえば、単純な式や初期値のわずかなずれによって、後には複雑で大きな差が現われ、予測不可であり、自己相似性を持っています。カオスは、大気(乱流の発生)、プレートテクトニクス、経済、人口などに応用されています。また、”歴史は繰り返す”といわれています。
・ 全歴史7000年説(2000年×3.5周期)より、 旧約(律法の時代) → 新約(恵みの時代)、 門柱と鴨居の血 → 青銅の蛇 → 律法のいけにえの儀式・過越し祭 → ヨナが三日間大魚の腹の中にいる → 御子イエス様の十字架(贖いが「完了した」)、 ヤコブ → イスラエル → 異邦人教会 → 終末の大リバイバル、 (悪い類推・発展形では、) バビロニア → メド・ペルシャ → マケドニア → ギリシャ → ローマ → 中世ヨーロッパ → 近世 → 終末の大バビロン、 ニムロデとその母 → アシュタロテとバアル → エペソ神殿の女神 → マリア崇拝 → 終末の大淫婦、など。
御父は、みこころのままをなされる方です。
神様のみこころに従った 救いのご計画は、なんと計りがたいことでしょう。
「その方は、碧玉や 赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」(黙示録4:3)
「すべてのことが、神(=御父)から発し、神によって成り、神に至る。」(ロマ11:36)
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリ2:12)
「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリ3:16)
「風(=聖霊)はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのか知らない。」(ヨハ3:8)
「その日、その時は、だれも知らない。天のみ使いたちも 知らない。ただ 父だけが知っておられる。」(マタイ24:36)
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みな そうである。」(Tコリント2:9)
* 全歴史7000年説: → (参照) ノアの箱舟